【感想/学び】"もしアドラーが上司だったら"は私を写す真実の鏡

- 日常 -
2020.12.25
もしアドラーが上司だったら感想/書評

"もしアドラーが上司だったら"を読んで色々と考えさせられた。他の人はどう感じているんだろう。

そんなふうに考えるかたへ。

「もしドラ」を読んで自分の頭の中に駆け巡った考え・感情を記事に書き殴っているので「ふーん、そんな風に考える人もいるんだね」と感じてもらえれば嬉しい。

ちなみに、なぜこの本を買おうかと思ったかというと「嫌われる勇気 ≫を読んだ後に読むと分かりやすい」というAmazonレビューを読んだからだった。

嫌われる勇気は、僕が会社の言いなりになるのをやめて「ブログを始めて副収入を得る」という行動を起こすキッカケをくれた大切な本だ。

「あなたの人生に影響を与えた本は何ですか」と聞かれたら、真っ先に「嫌われる勇気です」と答えるくらい感謝している。

ただ、嫌われる勇気にはなかなか普段の生活に落とし込めない"解釈が難しいな"と感じた教えもあったのも事実で、より現実の社会生活に沿ったストーリーに仕上げてくれたこの「もしアドラーが上司だったら」に救いを求めた、というわけだ。

この本が「僕の人生に影響を与えた2冊目の本だ」と言い切れるものになったことは間違いない。

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僕はこんな人:

  • 1988年生まれ/独身
  • 本業:SE
  • 多人数より少人数が好き。1対1の会話は大丈夫だけど3人以上の集団でしゃべらなくなる
  • 話しかけられれば話せるけど、自分から話しかけるのは苦手

【感想】"もしアドラーが上司だったら"で続々と暴かれる自分の本音・本性

僕はまず、「あ、今ここを読んで自分にこういう感情が沸いた。考えが頭をよぎった」という瞬間をとらえて「なぜ自分はそういう感情を持ったのか」を掘り下げてみることにした。

なぜかというと、アドラー心理学では「自己一致」からの「自己受容」が大事らしい。

自分はどう感じどんな考えをするのか。それをまず認めること。「いや、そんなことを考えてはダメだ」とか否認・抑圧・歪曲をしないこと・自分に嘘をつかないことが「自己一致」。

そしてそんなありのままの自分でいいのだ、と受け入れること。それが自己受容。

「一方で『自己受容』に条件は不要だ。弱さや不足がある、不完全な自分をありのまま受け容れる。それが『自己受容』だ。『人間だもの。弱さもあるさ。できないこともあるさ。失敗もする。でも、そんな自分をそのまま抱きしめよう』そうやって、飾らず自分を受け容れる。それこそがつまり『存在価値』を認めるということにつながるんだ」

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No853/2068

自己受容ができて初めて「他者信頼」「他者貢献=他者の勇気づけ=共同体感覚」へとステップを進めることができると。

「自分を大切にできないやつに他人を大切にできない」ってこと。その通りだろう。

では、この本を読んで明らかになった僕の本性をさらけだしていく。

僕は自分を変えたいのではなく、"誰か""何か"に自分を変えてほしかった

僕は「もしアドラーが上司だったら」を読んでまず感じたことがこれ。

ドラさんみたいな上司が俺にもいたら人生違っただろうな...うらやましいな...

自分の頭をよぎった正直な感情。この感情を掘り下げてみる。

すると、ちょっと直視したくない自分の本当の姿が暴かれてしまった。

僕はこれまでの思考の傾向・癖として

  • 何かやらねばとは思っている。でも、やり始める・行動し始めるためのキッカケがほしい

と考えることが多い。昔からそうだった。

たとえば「この高校、先生が俺に合ってるって言ってたな」という理由で志望高校を決め勉強をし、「この大学、先生が俺に合ってるって言ってたな」という理由で志望大学を決め勉強を始めた。

最初の就職先ですら、既卒就職エージェントが「あなたにおすすめです」と言われたことがキッカケで決めた。

この思考のスゴいところは、

「行動するための理由」も「行動の内容」も自分の外側から自分に向かってくることを待って期待している

僕の進む道を他人に示して欲しい

という完全な受け身である点だよね。

アニメや漫画の主人公みたいに、人生を変えるような大きなイベントの方から勝手に自分に降りかかってくることを(割と本気で)待ってる。

「自ら進んで他人/状況の言いなりになる状態」、すなわちアドラー心理学で言う課題の分離ができていない「服従」の状態だ。

本来は自分が決めるべき自分の課題に、相手を土足で踏み込ませ、それを許容するばかりか、言い分に従ってしまうことを「服従」と言います。

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No1174/2068

他人に従いたい理由1:面倒から逃げ責任を他人に押しつけたい

では、僕はなぜ自ら進んで「他人の言いなりになりたい」のか?

フロイトの原因論で考えると「いままでずっと自分の意見を言うことが苦手で周りの判断にしたがってきたからだ」となると思う。

僕は小中高と机上の勉強はできたが「手を上げて自分の考えをクラスに向けて発言する」ということができなかった。周りの意見に従ってきた。その経験が積み重なった結果が今だ、となるだろう。

これをアドラーの目的論で考えてみる。自分が他人に自分の道を決めて欲しいと考える目的。

そんなの簡単だ。

僕はとにかく楽をしたい。サボりたい。「自分の頭で考えるという面倒なことを避けたい」という目的があるからだ。

たとえば、自分の人生で「これだ!」と思うものがないなかで一生懸命探すのは面倒だ。やりたいことが見つかったとしても上手くいかなくなったらどうする?大変だろう。

でも、他人に言われたことに従ってやるのは圧倒的に楽。だって、失敗しても「言われた通りやっただけです」という言い訳や「あなたに言われた通りにやったらダメだった」と責任の押し付けができるから。

他人に従いたい理由2:他人に自分の考えを笑われたくない

もう少し考えてみると、楽だからという理由以外にも、

「自分の考えを根拠にして行動した結果、笑われたり嫌われたり間違ってると糾弾されるのが怖い」

というのも本音だ。

結局、僕は自分に自信がない。

だからバカにされても「だってあの人がこう言ってたからやってみただけだし!」という言い訳ができるように、他人の意見に服従しておくのだ。

会議で発言を求められても笑われるのが怖くて「・・・良いと思います」と"素の自分が秘めている本当の意見"は出さずに持っておくのだ。

つまり。

僕は"誰か"にそのままの自分を認めてもらいたくてしかたがない

「そのときのボクはいつもビクビクと怯えていた。そして自分を責めていた。会社に迷惑をかけている。みんなからバカにされているに違いない。そう思い込んでいた。そんなボクを見るに見かねたんだろう。突然、社長に呼び出されてね。それまでほとんど話したこともなかった社長の前でボクは緊張した」

(中略)

「あぁ。クビになるんだな、ボクは思った。社長から直々に引導を渡されるってね。そしたら社長がね、こう言ったんだ。『おまえは絶対に会社を辞めるな。おまえは要領は悪いけど、人として優しいやつだ。それだけで十分だ』ってね。そして、それ以上、一言も言わなかったんだ。それから、べろべろに酔っ払ってね。先に帰るぞ、って。お勘定払って一人で先に出て行った」

小倉 広 もしアドラーが上司だったら Kindle版(Kindle の位置No.681-686)

僕はこの一説を読んで、気付いたらポロッと一筋の涙が頬をつたっていた。

今となってはなぜ自分が「泣く」という感情が沸いたか理解しているつもりだけど、読んでいた時は急に、不意に、じわっときたもんだからとても焦った。

自分がパッと表面的に感じた最初の感情はこれだ。

  • そんな社長がいる会社、うらやましい

またうらやましいのかよ・・・。だけど、そう思ったと同時に「「うらやましいなぁ」では涙は出ないよな...」という違和感。

なんで涙が出たんだ。

うらやましい以上に、何か僕の奥底でうごめく感情があったはずだ。そう思って、文章を読んでから涙が出てくるまでに自分の中で巻き起こった感情をよくよく考えて文章にする努力をしてみた。

結果、こうなった。

  1. 「誰かに自分を認めてほしいと心から渇望している俺」が俺の中にひそんでいることを普段は意識しないようにしてたが、
  2. ドラさんに向けて言った社長の「そのままでいいんだ」という言葉に反応した"ひそんでいる内なる俺"が、あたかも"内なる俺"に向けて言われているように反応し、
  3. その内なる俺が"そうなんだよ、自分も誰かにそう言ってほしいんだよ!ずっとその言葉を待ってた!"と俺の表面意識に浮上してきて涙をながさせた

つまり「"俺は他人に認めてもらいたいという欲求が死ぬほど強い"という、俺が絶対に認めたくなかったことをこの文章で不意に暴かれた」んだと気付いた。

「「認めて欲しいという欲求が自分にあること」をなんで俺は認めたくなかったか」というのはすぐにわかった。

僕はひとりでいることが好きだからだ。ぞくに言う"ぼっち"気質で、「孤高の一匹狼」なんて言えば少しはかっこいいだろうか。

「俺は自分から好んで人を寄せ付けないんだ。遠ざけてるんだ。一人でいることで他人にどう思われても関係ない。俺は人と群れる必要がない」とわりと本気で思っている。

だけど「もしアドラーが上司だったら」を読んだ今、自分が今まで決して認めたくないと頑固に拒否しようとしていた自分の本音を意識せざるをえなくなった。

建前:俺は自分から好んで人を寄せ付けないんだ。
本音:だって人と関わって嫌われたら?役に立たないやつと思われたら?人と関わりたいくないんじゃなくて"人と関わって嫌われること否定されること"が怖い。

建前:一人でいることで他人にどう思われても関係ない。
本音:他人と関係を作る努力をした結果嫌われるなら、最初から関わりを持たないほうが気が楽だ。

建前:俺は群れる必要がない。
本音:そう思わないと一人でいる自分を肯定できない。誰か「そう、キミはそれでいいんだよ」と言ってくれ...!

"内なる俺"の本音だけつなげるとこうなる。

人と関わって否定されるのは耐えられない。自分から人を遠ざけて関わりを持たなければ嫌われることもなくて楽だな。絶対好かれる保証はないし、それなら一人でいよう。・・・そんな自分でもいいんだよ、って誰か俺に言ってくれ。「それでいい」と保証をくれ...!

・・・内なる俺、ガラスのハートすぎる。めっちゃ人に認められたがってんね。

【疑問】僕は、だれに認めてほしいのか?

「「あぁ、俺は一人でいるのが好き、他人は関係ないとかいいながら結局は誰かに"それで良いよ、そのままでいいよ"と認められたいんだ...」と俺自身が思っていたのだ」ということがわかった。

そんなことを考えている自分を認めるのは少し恥ずかしいけどね。

で、だ。

ここで問題なのが、じゃあ誰に認められれば「よっしゃぁぁぁぁぁ認められたぁぁぁもうこれで大丈夫だ!」となるのかってこと。

「誰に良い子良い子されれば俺は自信を持って行動できるようになるのか」ってこと。

家族?いや、幸せなことに家族はみんな僕を宝物のように思ってくれているし、一匹狼である僕を尊重してくれる。

友達?いや、確かに数は少ないけど友達は友達なんだからもう「認めて認められ」感は感じてるわ。

社会?いや、社会って誰だよ。会社の社長?上司?SNS上のなんか凄そうなインフルエンサー?具体的に誰?いねーよそんなやつ。

みんな?いや、だから誰だよ"みんな"って。「みんなそうだよ」って言うときのみんなは「具体的な誰でもない」だろ。

・・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・

これが考えてもよく分からんのです。マジで。

僕の中の赤ん坊な僕が「認めてくれないとや〜〜だ〜〜〜こわい〜〜〜!!」と駄々をこねていることは明らかだけど、誰に認められれば泣き止むのか、さっぱり見当がつかない。

・・・となると「誰に認められたとしても安心できない」ということか。これはなかなか正確な表現かもしれない。

つまり俺は、たとえ会う人会う人に「キミは、そのままでいいんだ」と言われ続けたとしても、

「次会う人は俺を否定するのではないか?明日になると俺を"とるにたらない奴"と思う人が現れるのではないか?明後日は?来週は?来月は?10年後は?ずっと俺は"このままでいていいと誰からも許される人間"でいられるのか?」

ということを恐れているということか。

絶っっっっ対に人に悪く思われない100%確実な保証を誰かに授けてもらわないと、怖くて自分から人と関わり行動する勇気を持てないということか。

・・・ということで、

「『俺を否定する人が一人もいない世界』を確定できない限り、俺の内なる赤ん坊は泣き止まない」

という恐るべき僕の内面が暴かれてしまった。

誰も僕を否定しない世界が欲しい?もう新世界の神になるしかねーなこれ。

でも、そう表現してみると「まぁ割と本気でそう思うことあるかも」と納得できている自分がいる。「神になって世界創りてぇなぁ...」なんて。

でも、現実では神になれないから、嫌われないように他人のご機嫌を気にして上手に振舞う術を身に着けるしかないのか・・・?嫌すぎる・・・

"認められたい自分"は自己中心的

「人の顔色を伺って行動する人」と聞くと、「つい他人の気持ちを真っ先に考えてしまう」という意味に聞こえるだろう。

でもそれは違う。「人の目を気にする人は他人の事が眼中にない自己中心的な人」なのだと。アドラーは本当に痛いところをついてくる。

「『人の目ばかりを気にしている人は、自分のことしか考えていない人である』アドラーの言葉だよ。リョウ君。君は今日一日中ずっと人目を気にしていたね。ツヨシ君やイチローやみんなの目だ。キミは自分のことばかりを考えていたんだね。」

引用:もしアドラーが上司だったら Kindle版(Kindle の位置No.1079/2068)

他人の目を気にするということは、自分は他人にどう思われるのかしか気にしてないということ。正直その観点はなかった。

「課題の分離」が答え:他者からの承認欲求を否定せよ

「じゃあ結局、誰からも嫌われたくない俺はどう行動していけばいいんだろう」という僕の悩みはさらに深まるばかり。

でも、しっかりと答えは書いてあった。

「課題の分離」だ。

他人の課題には踏み込まないこと。

「他人が自分のことをどう思うかは、他人の課題だ」ということを理解して自分の信念のままに行動すること。

それこそが「誰かに、みんなに認められたい俺」への処方箋だった。

「(中略...)独り相撲でいい。いや、むしろ独り相撲でなくてはダメなんだ。相手からほめられ、認められることを求めてはいけない」「相手には相手の考え方がある。喜び感謝する人もいれば、余計なお世話と拒絶する人もいる。噴水のライトのように人それぞれ七色の光だ。全員から感謝されることなんて不可能なんだよ。もしも全員に喜ばれようとすれば、相手の顔色をうかがってばかりで、貢献なんてできっこない」「だからね。拒絶されても、バカにされても、無視されてもいいんだ。キミがキミなりの善意で『相手のため』と信じて行動したのであればそれでいいんだ。独り相撲でいいんだよ!

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No1089/2068

「アドラー心理学では『それは誰の課題か?』という問いを大切にするんだ。(中略...)リョウ君がしたことに対してリカやイチローやツヨシ君がどのように反応するか?キミに感謝するか、点数稼ぎだと非難するか。それを決め、結末を引き受けるのはキミではなく彼らだ。だから、それは彼らの課題なんだよ」「カップを洗うか洗わないかはリョウ君の課題。それにどう反応するかは、彼らの課題。こんな風に『それは誰の課題か?』を明らかにして、自分の課題だけに集中する、他人の課題を解決しない。アドラー心理学ではそれを『課題の分離』と呼ぶんだ」「他人の課題に踏み込むから対人関係がうまくいかない。そして、他人の課題を背負うから苦しくなる。できないことをやろうとするから苦しいんだ。キミはキミの課題だけを考えればいいんだよ!

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No1110/2068

たとえばすこし混雑した電車でシートに座っているとき、お年寄りが乗車してきたのを見て

席を譲ろうか...いや、声をかけても断られるかもしれないし...。

...とこんなふうに考えたことはないだろうか。

お年寄りの反応は「ありがとう」かもしれないし「余計なお世話だ」と不機嫌になるかもしれない。どっちもありえる。

どちらの反応が返ってくるかは「譲る」という行動をしてみるまで分からない。

つまり自分の行動に対して他人がどう感じるのかは他人の課題だ。

自分の課題は「お年寄りを見て席を譲る勇気を出すか、譲らないか」だけであり「席を譲ったら相手にどう思われるか」を気にすることに意味がない。

たとえ「余計なお世話だ」と怒鳴り返されたとしても、自分の正義にしたがって譲ったのであれば、譲ったことに対して「よく譲る勇気を出した、他者貢献しようと自ら考え行動した。えらい。」と自分を認める=自己受容をしてあげればいい。

「何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい」
「人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい」
「世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい」

あぁ。そういうことだったのか。「それでもなお」この言葉には何一つ理由は書いていない。そして、その行動を取ることのメリットも書いていない。きっとそんなものは、はなっからないんだ。「それでもなお」にメリットも理由もない。だからこそ「それでもなお」なんだ。

損得を越えた世界。
損を承知で一歩踏み出す世界。
誰かがそれをやらなくてはならないから。
それを正しいと思える人が始めなくてはならないのだ。

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No1145/2068

ここは心にグッサリと刺さった。

「誰かが始めなくてはならない。見返りがなく、認められなくても。誰かが始めなくてはならない。まずは、あなたから始めるのだ。アドラーはそんな風に語っているよ。ボクはまさにその通りだと思う。リョウ君。だからね、キミが始めるんだ。見返りがなくても。誰からも認めてもらえなくてもね」

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No1127/2068

「そうありたい」と思って行動していた頃もあった。でも、いつから「どうせ自分が他人のために行動したって損するだけだ」と悲観するようになったのか。

誰からも認められなくても、褒められなくても、

「『俺がこうすることが、この人にとって、あの人にとっての貢献になるはずだ』という自分の信念に基づいて行動することを、他の誰かもやらなくても、俺が一番最初に始める」

行動に対して他人の承認/称賛を期待するのではなく、自分自身のその行動に対し自分自身が「よくやったじゃないか。お前の行動は他人の役に立っているはずだよ」と貢献感を感じられればそれで良い

ということこそ、他人からの承認を求める人生から脱出する最も確実な方法なのではないかと感じている。

課題の分離は難しいけど、習慣化したら人生ちょっと楽になる

課題の分離には、2つのステップがある。

  1. 誰の課題かを考えるステップ
  2. 考えて結論を出した後、行動に移すステップ=行動する勇気が試される

このうち、1つめは頭の中で完結するからチャレンジしやすい。「ゴミが落ちている。ゴミを拾うか拾わないか。俺の課題だ。どうする。」と考えるだけでいい。

問題は2つめのステップだ。

「拾う」と決めた直後から「ここ電車の中だし混んでるし屈んで拾うだけでもなんか目立つよな」などと"他人の目を言い訳にやっぱり行動しない"と考え始めたりする。

「もしアドラーが上司だったら」は創作ストーリーなので主人公の"リョウ"は理論を知ってすぐにできているかのように描かれている。

でも実際にやろうとすると、行動にうつすまでが難しく、人の目が多ければ多いほど難しくなることを痛感する。これは僕だけではないはずだと思いたい。

僕の他者貢献のための行動を人がどう思うかは僕には分からないから、人の目を気にしても仕方ない。

頭では分かる。

でもやっぱり気になってしまう。どうしても他者からどう見られるかが行動するかしないかの基準になってしまう。

でも。

これは習慣化の問題だとも理解している。

つまり、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し課題の分離を意識してやり続けることでできるようになるのだと言い聞かせて毎日頑張ってみるしかないよね、ってこと。

少なくとも、課題の分離を知らなかった時=他者承認から逃れる術を知らなかったときよりも知っているだけでマシなのだから。

自分、結構できてることあるじゃん

1章の宿題、それが「できないことではなく、できていることに注目する」こと。

「いいかい、リョウ君。人の行動の九十五パーセントは『できている』行動だ。しかし、ボクたちはたった五パーセントの『できていない』行動ばかりに注目して、『できている』九十五パーセントを無視してしまうんだ。それでは、エネルギーが湧くわけがない。やる気が起きなくて当然だ」
「だって、一日中『できていること』だらけなのに、それはすべて『当たり前』だから、と無視されて、ほんのわずかな『できていないこと』に注目をされてしまうんだよ。ボクだったらバカバカしくてやる気をなくしちゃうな。キミは自分に対してそれをしているんだよ。自分で自分のやる気をそいでいるのさ。ひどいことをしちゃっているよね」

出典:もしアドラーが上司だったら Kindle版 No181/2068

この1章はすごく好き。正直、この1章を読んだだけで「自分はちょっと変わったかもしれない」という明確な感覚があった。

今やっていることは、過去の自分が知りもしなかったこと

それこそ、直前の項目で書いた「課題の分離」がそうだ。

課題の分離なんて知らなかった。でもアドラーの教えを学んで知った。で、今自分はそれを現実の生活に落とし込むため行動しようとあがいている。

それってすごいことだろ。

「アドラーから学べ」なんて誰かに言われてやっていることじゃない。自分の意思で、自分が持つ問題意識に対する解答を求めてたどり着いた知識を実践しようとしている。

他人から見たら「習慣化できていないじゃん。どうせ無理だって」と映るかもしれない。

でも「習慣化できていない」という事実に注目するか?「意識して実践できている」という事実に注目するか?それを決めるは僕の課題だ。

できなかったことができている、そう考えるだけで自分の"心のガソリン"が満たされる感覚を得ることができる。

できていることだらけだ。

今の自分の当たり前は、過去の自分の当たり前ではない

「今挑戦していること」を「できていること」と捉えるのはそこまで難しくない。

「頑張ってやろうとしている」という意識が働いているぶん苦労を克服しようとする達成感が伴うからだ。

難しいのは「『当たり前のこと』と自分が捉えていること」を「できていること」にカウントすることだと思っている。

まず「もしアドラーが上司だったら」の1章を読んだことで、「自分が当たり前だと思っていることは、過去に当たり前じゃなかったこと」なんだということに気付かせてくれて、

あ、過去の自分と比べたら、俺っていろいろなことができるようになってんじゃん。頑張ってるじゃん俺。

という勇気が沸いてきた。

今当たり前にできていることは、過去の自分が苦労して当たり前にしたことはずなのだ。

たとえば僕は片道1時間の通勤電車の中では、必ず読書をするかブログ記事を書く。必ずだ。

ご飯が目の前になくてもベルが鳴ればよだれが垂れるパブロフの犬と張り合えるレベルで、「電車に乗る」という条件に反射で手が勝手にKindleを開くかブログ記事作成画面を開く。

たとえそれが乗車時間が5分でも変わらない。完全に「習慣化」している状態だ。

僕はこれが当たり前の行動だと捉えていたけど、「すごい」と言われることが多い。

ではいつからそれが当たり前になっていたのかと。

記憶を掘り返してみると、この習慣は、高校卒業後に浪人していたころ電車で片道1時間かけて予備校に通っていた時に、毎日英単語帳や世界史ノートとにらめっこしていた時がキッカケで身についた習慣だったと気付いた。

当時、次の年は受験に落ちることができないプレッシャーもあり、必死に勉強していたことをよく覚えている。

そんな18, 19才の頃の習慣を32才になっても欠かさず続けている。

文章に起こしてみると、より自分がとんでもなく素晴らしいことが"できている"のだと実感してきた。

でも、僕はそんなすごい”勇気の源”を「そんなの当たり前」と10年以上見ないフリをしてきたことになる。

いつかの自分はやらなかった出来なかったのに、今はできる。いろいろな"できる"を再認識して「自分、すごいじゃん!」と心のガソリンを注入することができた。

ジョギング、筋トレ。自炊。

習慣化すると「もうこれはやって当たり前。できて当たり前。」というメンタルになってくる。

もっと他にもできるようにならないと。俺が求めているのはコレジャナイ。「できないこと」に注目ばかりするようになる。

ある意味それは「意識のレベルが上がった」と言えるかもしれない。でも、なんかもったいないよね。

せっかく周りの人が「すごいね」と言ってくれるんだから、「そんなことないですよ」と口で言いつつ、せめて心の中では「そうだぞ。俺は色々なことができるんだよ」とつぶやいて自分を認めていってあげたいと思った。

「こんなの出来て当たり前」は禁止。

この1章だけでも読む価値があったと思っている。紛れもない本音だ。

まだ頭の中に渦巻いているいろいろな感情があることは確かだけど、明確に文章化できるのはいったんここまで。

まとめ:"もしアドラーが上司だったら"は私を写す真実の鏡

「もしドラ」を読んで、僕は僕自身のことを読む以前よりも理解できるようになった気がする。

・・・・・

・・・

というのは嘘。

正確に言うと、僕は僕自身のことを読む以前よりも理解できるようになり、受け入れられるようになった気がする、だ。

  • 面倒くさがり
  • 責任を他人に押し付けたがり
  • 他人に認められたがり

今まで見ていた鏡に写っていたのは「自分に限ってそんなことない」と頑なに認めようとしなかった自分。

もしドラを読んでから見えたのは「まず、そういう自分がいるんだよね」と認めることができた自分。「そんな自分でも、できていることがたくさんあってすごいよね」と認めることができる自分。

嫌な部分も、良い部分も、しかもそのどちらも嘘偽りない全てを映し出して僕に見せてくれた「真実の鏡」。少しカッコよく表現するとそんな感じだ。

"心のガソリン"が減るたびに、ドラさんに勇気をもらいに何度もなんども読み返していきたい。

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